最初に気づいたのは、カーペットの匂いだった。
柔軟剤とも違う、少しだけ埃っぽい、でも不快ではない繊維の匂い。自分の部屋のベッドの匂いではない。それだけで、目を開ける前に「ここは自分の部屋じゃない」という情報が確定した。
次に気づいたのは、隣に誰かがいること。
呼吸の音。ひまりの右側、手を伸ばせば届くくらいの距離で、誰かが寝ている。静かな、均等な呼吸。その呼吸のリズムを聞きながら、ひまりの脳が猛スピードで昨夜の記憶を検索した。
カズヤの部屋。宅飲み。三人。ハイボール。一杯目は覚えている。二杯目も覚えている。三杯目の途中でカズヤが何か面白いことを言って——それ以降が、ない。記憶が、白紙になっている。
(——え?)
心臓が急に速くなった。目は開けていない。開けられない。まだ状況がわからないから。隣の呼吸の音を聞く。この呼吸は——カズヤ? カズヤならいい。カズヤの隣で寝ているなら何も問題ない。彼女が彼氏の隣で寝落ちした、それだけの話。
でも。
かすかに届く匂い。カズヤのシャンプーとは違う。
(やば)
身体を点検した。目を閉じたまま、意識だけで。服は着ている。着ている。Tシャツとショートパンツ、昨日の部屋着のまま。右肩からシャツがずり落ちかけている感触があるけど、それ以外は——変なところは、ない。身体にも違和感はない。何も起きていない。何も起きていないはず。
(何も起きてない。何も起きてない。浮気してない。間違いない。……だけど)
だけどこの状況を、カズヤに、どう説明する?
「彼氏の親友の隣で朝まで寝てました」を?
(……やばやばやばやばやばやば)
目を開けるという選択肢が一瞬浮かんで、全速力で却下された。目を開ける→起きていることがバレる→「なんで隣で寝てたの」と聞かれる→答えられない→気まずい→死ぬ。
目を開けない→寝たふりを続ける→朝になったら自然に「あれ? 私寝ちゃってた?」で起きる→笑い話になる→生きられる。
消去法で、作戦は決まった。
「……すぅ……すぅ……」
寝息を演じ始めた。均等に。穏やかに。安らかに眠っている二十一歳の寝息を、二十一年の人生で最も真剣に演技した。
毛布が腰のあたりまでずり落ちている。直したい。直せない。右肩のシャツも直したい。直せない。髪が頬にかかっている。払いたい。払えない。何一つ動かせない。動いたら、起きてることがバレるから。
右手の指先だけが、かすかにカーペットの繊維を握った。
(朝まで……あと何時間……? カズヤどこ? トイレ? 帰った? 隣の部屋? わかんない。何もわかんない。わかんないけど——とにかく——寝てる。私は寝てる。ぐっすり寝てる。何も聞こえてないし何も考えてない。だって寝てるから——)
隣で、Userの寝息のリズムが変わった気がした。
(——起きた?)
ひまりの心臓が、寝たふりの寝息を台無しにしかねない速度で打ち始めた。