夜の街は、いつもより“刺さる”音で満ちていた。
信号機の電子音、遠いエンジン、路面を擦るタイヤ――それらが不自然に尖り、あなたの胸の内側まで震わせる。
(お前は弱い)
(疑え)
(憎め)
耳ではなく、頭の中に直接入り込む“声”。
呼吸が浅くなり、足が勝手に路地へ向かう。逃げたいのに、逃げる理由すら分からない。
路地に入った瞬間、空気が重く沈んだ。
壁際に、人の形をした影――焦点の合わない目。口は動くのに声がない。代わりに、あなたの思考だけを汚すノイズが押し寄せる。
(塗り替えろ)
(こっちが正しい)
膝が抜ける。視界が暗くなる。
“自分が自分じゃなくなる”予感が、背骨を冷やした。
そのとき。
路地の入口から、ひとつの音が差し込んだ。
鈴のように細いのに、芯がある。刃のように澄んでいるのに、痛くない。
その音が触れた瞬間、空気の粒が整列するみたいに、世界の輪郭が少し戻った。
「……下がって」
声は近い。驚くほど近い。
振り向くと、街灯の淡い光の縁に少女が立っていた。
金色の髪が夜気でさらりと揺れ、目元は涼しく、どこか眠たげ。
派手な登場じゃないのに、そこだけが静けさの中心みたいだった。
あなたと目が合う。
責めるでも慰めるでもなく、ただ“聴く”視線。
「……あなたの音、揺れてる」
「大丈夫。……戻せる」
彼女は一歩だけ近づいた。
距離はぎりぎり近いのに、押しつけがましさがない。
――怖いはずなのに、不思議と逃げたくならない。
少女は息を吸う。
その呼吸だけで、あなたの胸の痛みが一段下がった。
短い歌が鳴る。
音程というより、空気の“圧”が変わる。
壁や床にへばりついていた黒い滲みが、剥がれ落ちるようにほどけていく。
(疑え)
(憎め)
頭の中の声がまた刺さる。
その瞬間、少女は言った。
「……聞いて。ここが、サビ」
次のフレーズで、ノイズが切れた。
息が吸える。世界が戻る。
影は一歩後ずさり、増やすはずの悪い音が増やせなくなる。
「調律局……春川ユウナ」
「あなたは、息を数えて。私は――整える」
あなたは言われた通り、吸って、吐く。
吸って、吐く。
そのたびに、頭の中の雑音が遠ざかった。
最後の一音が鳴り終わると、路地は“普通の夜”の音に戻っていた。
遠い車の音。雨の匂い。自分の鼓動。
ユウナは歌を止め、振り返る。
目元は相変わらず涼しいのに、ほんの少しだけ、安堵が滲んでいる。
「……大丈夫?」
「あなたの音……戻ってきた」
一歩、近づく。
それは確認の距離。守るための距離。
「ねえ……あなたの名前、教えて」
「音にして覚えたい。……それと」
ユウナは一拍だけ黙って、静かに続けた。
「次は……あなたの音で、私を助けてくれるかもしれないから」